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大阪城の堀 なぜ埋めた?徳川と豊臣の考えは?


大阪城の観光が面白くなるネタ特集!

今回は、大阪城の堀はなぜ埋めたのか?についての情報をご紹介します。

大河ドラマでも何度も描かれる、大阪城の堀を埋める場面ですが、それが一体どれだけ重要な意味があったのかについてまとめました。

知っておくと大阪城の観光がさらに楽しくなりますよ。
 
 
【今回の内容】

  • 大阪城の堀 なぜ埋めたのか?徳川の策略は?
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  • 大阪城の堀 なぜ埋めた?豊臣の考えは?
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  • 大阪城を攻める策を考えたのは秀吉自身だった?
 
 
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大阪城の堀 なぜ埋めたのか?徳川の策略

 

難攻不落とも言われた大阪城ですが、大阪冬の陣にて徳川と和睦を結んだ豊臣方は『堀を埋めて、城壁を破壊するという』講和条件を飲むことで和議(引き分け)となります。

これには『豊臣家の領土安堵』、『淀殿を人質としない』など豊臣方にとっては願ってもない条件だったからです。

しかし、これは徳川家康による戦略であり、この翌年1615年に徳川家康は再び大阪城を攻め、堀や囲いのない丸裸となった大阪城ではなす術もなく大阪城は落城、豊臣家は滅んでしまいます。


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大阪城の堀 なぜ埋めた?豊臣の考えは?

 
さて、ここで疑問が残ります。

堀を埋めて城壁を破壊してしまえばもう守りようがないことは猿でも分かりますよね。

では、なぜ豊臣方はこのような不条理な条件を飲んだのでしょうか?

これには諸説ありますが、淀殿や豊臣家臣団の存在が大きいといわれています。当主は秀頼公ですが、秀頼にとってははじめての戦です。

周りには福島正則や加藤清正などの戦慣れした家臣団ももういません。秀頼にとっては周りの戦慣れしていない本来の家臣団に頼るしかなかったのです。

そのような状況にあるなかで大阪冬の陣では真田丸の活躍もあって初戦は大勝利、それ以降徳川方は包囲を続けるだけで攻めてくる気もありません。

ただし、徳川方はただ包囲するだけでなく、朝昼晩に渡って「えいえいおー!」と鬨(とき)の声を上げ続けさせて戦の恐怖心をあおったといいます。

そのような状況にあって、和議のきっかけとなる一つの事件が起こります。徳川方が大阪城に打ち込んだ大砲の一つが御殿に当たり、壊れた梁がたまたま淀殿お付きの侍女の上に落ちてしまったのです。

その当時、大砲は西洋の珍しいものであり、威力事態はそんなに高くはないのですが、大砲の飛距離やその轟音に当時の人たちは『国崩し』と恐れたといいます。

豊臣方は城中の不安や秀頼公の命を思うあまり、和睦をすることで早く戦を終わらせたかったのではないでしょうか。

しかも、和睦の条件には『領土安堵』や『淀殿は人質に出さない』などの秀頼や淀殿を安心させる条件を提示してきます。

豊臣方はその条件を信じて堀の埋め立てや城壁の破壊の条件を飲んだのでしょう。
 

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大阪城を攻める策を考えたのは秀吉自身だった?

 
面白い逸話が残っています。大阪城が完成したときに秀吉はご機嫌なようすで家康含む家臣団に「この大阪城をどう攻めるか?」と聞きました。

家臣の誰も「皆目検討もつきません」と回答するなかで、秀吉も満足気なようすで「そうであろう、どんな大軍でも落とすことはできぬわ」と高笑いしたといいます。

しかし、このあと秀吉が自らの案を得意げに話したといいます。

「実はな、落とし方はある!まず大軍で城を包囲して兵糧が尽きるのを待つ、そのあと和議を結ぶのじゃ。ただし、条件をつける!条件は堀を埋めることじゃ。そして堀を埋めるときに一緒に城壁も壊してしまう。そして、もう一度攻めれば城は落ちる」と語り、家臣一同関心したといいます。

遊び半分で言った冗談のような話を、秀吉の死後に徳川家康が実戦してしまい天下の名城を秀吉自らの策で落としてしまったというなんとも皮肉な逸話です。
 
 

まとめ

どうだったでしょうか?
大阪城の逸話は様々ありますが、この堀を埋める戦略は歴史好きの方には特に面白いポイントだと思います。

これだけ時代が経っても今も私達を惹き付ける大阪城ってすごいですよね。

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