大阪城

大阪城 豊臣時代の場所は?石垣は?本来の姿は?

2017/04/13


今回は大阪観光シリーズの中でも
好評のある大阪城の歴史について
ご紹介します。

私達は大阪城というと
今の姿しか知りませんが
当時はかなり違ったようです。

そこで今回は豊臣時代の
大阪城の場所や姿についての情報を
まとめました。
 
 
【今回の内容】

  • 大阪城 豊臣時代の場所は今と違う?
  •  

  • 大阪城 豊臣時代の石垣 今はどこに?
  •  

  • 大阪城 豊臣時代の本来の姿は黒い?
 
 
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大阪城 豊臣時代の場所は今と違う?

 
豊臣秀吉が天下統一の中心地として建てた最初の大阪城は、『三国無双の城』ともいわれた素晴らしい城でした。しかし、1615年に大阪夏の陣で豊臣家が敗北した後、徳川幕府によって城は石垣に至るまで大部分が破壊されたあとに徳川家によって城が建てられたので、豊臣家の遺構はまだ地下に眠っています。

秀吉時代の大阪城は、本願寺家の跡地へ天下人らしい壮大な城を造り始めます。本丸、二の丸の大きさは現在の大阪城とほぼ同じで、惣構えで2キロ四方に広がる大きな城でした。現在の大阪の繁栄も大阪城と秀吉の城下町の建設によって基盤ができたとも言えます。

しかし、秀吉が死去した後、大阪の陣(冬・夏)にて大阪城とともに、繁栄を誇った豊臣家は崩壊します。その後、豊臣時代の大阪城は徳川幕府の新たな城郭工事によって深い地下に埋葬されてしまっているんです。
 

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大阪城 豊臣時代の石垣 今はどこに?

 
徳川幕府時代には破壊されて埋め尽くされたと思われていた秀吉時代の石垣ですが、調査によって実は地中深くに眠っていることが判明しました。そのため、大阪市のプロジェクトによって、現在「大阪城豊臣石垣 公開施設」が2019年頃に建設される予定となっています。見られるまでまだまだ時間がかかりますが楽しみですね!

さて、大阪市のプロジェクトまで待てないという方にも朗報があります!実は、意外な場所に豊臣時代の石垣を見ることができるんですよ。

 

■大阪府立 男女共同参画・青少年センター(ドーンセンター)前

■追手門学院小学校 東門横

 

これらは、建物を建築する際の地中調査で偶然発見された石垣なんです。しかも地中から掘り返したあとに、小石に至るまでわざわざあった通りのまま石垣を移築復元したとのことです。手間ヒマかけて作りなおした遺構なのですが、ほとんど知られることのないマイナースポットになっています。
 
 

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大阪城 豊臣時代の本来の姿は黒い?

 
2016年に話題にもなった真田丸、そのドラマの中で大阪城がCGで再現されていましたね。その時「あれ?大阪城が真っ黒じゃないか!」って思った人は多いのではないでしょうか?

現在見られる大阪城といえば、白壁に緑の屋根のイメージがありますよね。実は現在見られる大阪城は鉄筋コンクリートで造られた復元天守なのですが…何を思ったのか1階から4階まで徳川時代の『白い大阪城』、5階の天守最上階のみ『豊臣時代の黒い大阪城』のハイブリッド建築だったのです!よーく見てみると大阪城の最上階は黒壁になっているとは筆者も知りませんでした(笑)

豊臣時代の大阪城は屏風絵など残っていますが、全て黒壁の大阪城なんです。なぜ黒いのかというと、豊臣さんが『金色』が大好きだったからです。『金色』を映えさせるために一番ふさわしい色が、黒色なんです。

豊臣時代には瓦まで金色あったため『金城』とも呼ばれていたほどなんですよ。ちなみに現在の大阪城の屋根が緑色なのは、素材に軽くて加工のしやすい『銅』が使われているためで、銅が酸化して緑色に変色してしまっているためなんです(笑)徳川時代では黒色の瓦が使われていたようですね。
 

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まとめ


豊臣秀吉の時代の大阪城の敷地は
今よりも大きかった。
 
 

徳川幕府により
埋められてしまう。
 
 

豊臣時代の大阪城の石垣は、
大阪府立 男女共同参画
青少年センター(ドーンセンター)前、
追手門学院小学校 東門横で、
見ることができる。
 
 

元の姿は黒い壁面だった。

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