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豊臣秀頼と天草四郎の関係 島原の乱の真相は?

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大人気!大阪観光シリーズ!(*'ワ'*)

今回は大阪城の観光が楽しくなる
トリビアをご紹介!

歴史に詳しいマルコ・ポーロさんから
面白いお話を聞けました。

何と!!

豊臣秀頼と天草四郎が親子という
諸説があるのだとか!?

え!?えぇー!!!?Σ>―(*・д・*)

 

ということは、
天草四郎は豊臣一族の子孫!?

今日はそんなトリビアを
マルコ・ポーロさんが
教えてくれました。
 
 
【今回の内容】

  • 豊臣秀頼と天草四郎は親子?
  •  

  • 豊臣秀頼と天草四郎 島原の乱の真相は?
  •  

  • 豊臣秀頼の墓が鹿児島ある?
 
 
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豊臣秀頼と天草四郎は親子?

 
1615年、豊臣家が滅ぼされた大阪夏の陣が起こりました。

その当時、自害していたと言われていた豊臣秀吉の子供である秀頼公ですが、実は真田幸村や家臣団とともに薩摩(鹿児島県)に船で逃げ出したという説があります。

その証拠に京や大坂では「花のような秀頼様を、鬼の様なる真田が連れて、退きも退いたり加護島へ」といったわらべ歌が流行ったといいます。

そして、天草四郎率いる島原の乱が起こった1637年、「千成びょうたんの馬印(大将を示す旗)」を持って戦いを行なったことから天草史郎が秀頼の子と噂される大きな理由にあります。

なぜなら、「千成びょうたんの馬印」は豊臣時代には使うことが許されなかった豊臣秀吉の象徴ともいえる旗なのです。

天草四郎が豊臣家となんらかの関係にあったことは間違いないでしょう。

さらに、徳川幕府軍が島原の乱の詳細を残したという書物には天草史郎は「豊臣秀綱」という名前で豊臣秀頼の息子という記述も残されているのです!

そのため、徳川幕府軍は、豊臣の血統を根絶するために島原の乱に参戦したキリシタンを全員を殺したとも言われています。
 

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豊臣秀頼と天草四郎 島原の乱の真相は?

 
島原の乱に関わりのある人物として『小西行長』がいます。

小西行長といえば秀吉子飼いの武将であり、島原の乱が起こった地をかつて治めていた武将でした。

小西行長は関が原の戦いで石田三成に味方したことで斬首されましたが、島原の乱の際にはキリシタン大名であった小西行長の元家来や農民も多く関わっています。

そのため、豊臣秀頼の生存説のあるとおり、鹿児島に秀頼公が逃げのびたということもあれば豊臣家復興のために小西行長の元配下や農民は喜んでこれを受け入れたことでしょう。

先述したとおり、島原の乱では「千成びょうたん」が使われたり、『豊臣秀綱』という名前も見られています。

小西行長の家臣が、元豊臣家臣の浪人を集めためにこのような対応をとったとも考えられますが、豊臣家が関わっていれば徳川幕府による皆殺しなどの悪業が行なわれたことにも納得がいきます。

 
 

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豊臣秀頼の墓が鹿児島ある?

 
さて、豊臣秀頼公の生存説を裏付ける遺跡が鹿児島にあります。

鹿児島県鹿児島市谷山の民家の庭にある宝塔で、秀頼公のお墓として伝わっています。

ここに伝わる谷山史に面白い逸話が残っています。

秀頼公は無銭飲食を繰り返したり、大酒を飲み暴れ周っていたとのことですが、秀頼公に無礼があってはならないと言われていたため、皆恐れて逃げ隠れていたといいます。

実際にこれが秀頼公のお墓かは諸説ありますが、その当時の村人の困りぶりが分かる面白い逸話ですね。
 

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まとめ

鹿児島って今では観光地としての
イメージが強いですけど
こうして歴史を紐解くと
すごく面白い話が
いっぱい眠っているんですね。

それにしても
まさか豊臣秀頼が鹿児島に落ち延びて
しかもその子供が
天草四郎になっているという
諸説にはびっくりです。

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