大阪城

真田幸村の最後の諸説 鹿児島生存の伝説


大阪観光でも重要な存在の
真田幸村。

先日、真田丸のことを
歴史に詳しいマルコ・ポーロさんに
聞いた時に
こんな、話が・・・

「真田幸村は実は生き延びたって話、知ってますか?。」

 

・・・・
 

マジっすか!?Σ(`・ω・´)

 

というわけで
歴史シリーズ第2弾!

真田幸村の最後、
生存説の伝説について、
ご紹介します!
 
 
【今回の内容】

  • 真田幸村の最後 史実では?
  •  

  • 真田幸村の最後の諸説 鹿児島生存の伝説
  •  

  • 真田幸村の最後 生存説の解説
 
 

真田幸村の最後 史実では?

 
大阪夏の陣にて天下取りである徳川家康に切腹まで考えさせた真田幸村ですが、その奇策も失敗に終わり「安居神社」にてその死を迎えたといわれています。享年49歳。

伝承では、三度の突撃を終えて真田幸村が安居神社の松の木の下で傷ついた身体を休めていたところを敵が発見したといいます。しかし、幸村は動じることなく「手柄にせよ」と潔くその死を迎えました。
 

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真田幸村の最後の諸説 鹿児島生存の伝説

 
真田雪村には生存説が残っているんです!

それも、豊臣秀頼公とともに現在の鹿児島に逃げ延びたという説です。

火のないところに煙は立たないというますが、なぜこのような伝承が埋まれたのでしょうか?

ポイントは3つあります。

 

①真田幸村は影武者だった

②豊臣秀頼の遺体が見つかっていない

③鹿児島の島津氏の輸送船が大阪城に入っている

 
 

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真田幸村の最後 生存説の解説

 
まず、真田幸村の影武者説について、大阪夏の陣では幸村の首が3つも取られたといわれています。

当然、真田幸村が実際に3人いたわけではありません(笑)

幸村の影武者がいたという話は、まず事実でしょう。

 

次に豊臣秀頼や淀殿の遺体についてですが、大阪城は最後は焼け落ちてしまっているため「遺体の顔も判別できない」という文献も残っています。

遺体が見つかっていないという話もまた事実とみて間違いないでしょう。

 

最後に、島津氏の輸送船が大阪城に入っているという点について、これに関しては史実として残っているわけでないため、これはあくまで伝承になります。

伝承によれば、大坂の役にて豊臣からの使者に対して「味方は出来ない」と返答したのですが、過去の恩義から大坂城に500石の米を船で送り届けました。

 

しかし、これは表向きの話しであり、実はこの船を使って真田幸村や豊臣秀頼、その家臣団が鹿児島まで脱出したといわれています。

わらべ唄にも『鬼のようなる真田が、花のようなる秀頼さまを連れて、 退きも退いたり、鹿児島まで』と唄われているぐらいんなんですよ。

逃亡先は鹿児島の『雪丸』という場所であり、この地名は『幸村』の名前がなまって『ゆきまる』という地名になったといわれています。

この地は現在の南九州市の頴娃(えい)町という場所にあり、真田幸村のお墓も残っているんですよ。

幸村は、生涯をこの地で過ごし、農村の娘との間に生まれた子どもが『真江田(まえだ)』という姓を名乗り、幕末には薩摩藩から刀を持つことを認められています。

この250年後には薩摩藩が徳川の世を壊す働きをしたと考えると、このような伝承が真実であると本当に面白いものですね!
 

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まとめ

いや~・・・

こうしてみると
伝説というよりも
本当に真田幸村が
鹿児島へ落ち延びた可能性が
高いように感じますね。(;・∀・)

 

これは余談なんですけど、
鹿児島の人は
関西人のことが好きな人が多くて
大阪弁でしゃべっても
全然抵抗なく受け入れてくれる人が
多いんですよね。

もしかすると
こういった伝説が
大阪と鹿児島に繋がりを
作っているのかもしれませんね。

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